哲学の結晶として —— パソコン
哲学の結晶として —— パソコンという家電を作った、ただ一人のAppleこそ。
投稿日:2024年6月19日 | カテゴリ:テクノロジーと思想
パソコンが「哲学」になるとは思わなかった。だが、Appleという企業は、かつて「パソコン」を「人間の思想を解放する道具」として、最初から設計していた。
多くの日本のメーカーは、パソコンを冷蔵庫や炊飯器と同じような「便利な家電製品」として見ていた。スペックの向上、効率の追求、省エネ性能……確かにそれは必要だ。だが、それは人間の思考や創造性とは無関係な領域だった。
対してAppleは、パソコンを「思想の道具」として提示した。使うことで自分の中にある創造性や価値観が立ち上がり、言葉になり、形になる。そんな目的でMacintoshは生まれた。
それを明確に示したのが、1984年にスティーブ・ジョブズが発表したMacintoshであり、そしてその前後に展開された映像の数々だ。
単なるマシンではなく、世界の見方を変える家電を、ジョブズは提案した。
1984年、ジョブズがMacintoshを紹介した瞬間
まだ誰も「GUI」すら見たことがなかった時代に、彼はそれを当たり前のように操作してみせた。デザイン、サウンド、対話性。すべてに「人間らしさ」を込めた一台だった。
Appleが「1984」に投下した革命のCM
ジョージ・オーウェルの『1984』を引用しながら、AppleはIBMによるコンピュータ独占に挑んだ。CMの中で、女性アスリートが支配の象徴を破壊する——これはテクノロジー史上、最も詩的な広告だった。
「思想」としてのMacintosh —— スピーチより
Macintoshは「感動するパソコン」だった。ジョブズは、それを「思想の拡張装置」として語った。自分の考え、世界の捉え方、表現のすべてを、この小さな箱に託したのだ。
Think different —— 人類に贈るメッセージ
「クレイジーだと思われる人たちが世界を変える」。Appleのこのメッセージは、単なるマーケティングではない。
それは、思想としての道具=Macを信じた者だけが語れる言葉だった。
けろいちが思う「使うべきパソコン」とは
パソコンを選ぶとき、多くの人は価格やスペックに目を向ける。でも、それは本質だろうか? けろいちは、こう思う。
パソコンは「処理速度」や「メモリ容量」のためにあるのではない。想像し、創造するための機械なのだ。何かを思いつき、それをかたちにする。その営みに寄り添う道具こそ、本当の意味で「使うべきパソコン」ではないか。
その思想を、最初から持っていたのがAppleだった。Macintoshは「哲学の結晶」として誕生し、人の内なる世界を外に開くための設計思想が貫かれていた。
今なお、その精神はAppleに息づいている。だから、けろいちはためらいなく言う。「使うべきパソコンは、Appleだ」と。
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