「学校に行くことがすべて」なのか?
「学校に行くことがすべて」なのか?──教育の本質を問い直すと見えてくる進路の選択肢
カテゴリ:教育と社会
教育=学校へ行くこと、という呪縛
子どもが生まれたら、学校へ行かせるのは当然。小学校、中学校、高校、大学……。そして就職。
私たちはいつからか、「教育」とは「学校に行くこと」だと信じて疑わなくなった。まるでそれが唯一の正解であるかのように。
だが、本当にそれだけでよいのか?
学校教育は確かに知識を与えてくれるが、それは「生き方」まで教えてくれるだろうか。学歴はあるが、なぜ働くのかわからない。そんな若者たちの孤独が、今深刻な問題となっている。
若者の孤独と、「会社に入るしかない」という空気
2025年6月の産経新聞の報道によると、20代の若者の半数が「孤独」を感じており、その影響は健康リスクに換算して「1日15本の喫煙」にも相当するとされる。
なぜ、社会に出たばかりの若者たちがこれほど孤独を感じるのか?
その理由のひとつに、「他に選択肢があることを知らされていない」という構造的な問題があるように思える。学校教育は「就職=会社員」のルートを標準化しすぎており、それ以外を選ぶ自由を、誰も本気で教えてこなかったのではないか。
農業という「もう一つの選択肢」──学歴不要、誰にでもできる
農林水産省の資料 ▶︎『農業を職業にしてみよう』 によれば、農業は学歴を問わず始めることができる職業だ。しかも、自然の中で、自分の力で生きるという本質的な働き方がある。
政府も「農業」という選択肢を提示してはいるが、なぜかその伝え方は非常に控えめだ。これは、150年にわたる「教育=サラリーマン育成」という国家構造のなごりかもしれない。
教育費の無償化が叫ばれる今こそ、「何のために学ぶのか」「学問とは何か」をもう一度問い直し、「学校に行くこと=人生の正解」ではないという認識を社会全体で持つ必要があるのではないか。
国家、学校、親──問いを投げかける責任は私たちにある
若者たちが社会に出て悩み、孤独を感じる背景には、「考える暇もなくサラリーマンになる」という構造がある。そしてその構造を作ったのは、国家であり、地方自治体であり、学校であり、親であり、社会そのものだ。
若者の孤独は、個人の弱さではなく、大人たちが問いを与えなかったことの結果だ。もっと多様な生き方、多様な働き方を、静かに、しかし確かに伝えていかなければならない。
文・けろいち
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