システム開発の基本

知識ではなく、思考こそが問題解決を導く

知っていることと、解決する力の違い

現代社会では「物知り」「インテリ」「知識人」が評価されがちです。彼らは膨大な情報を蓄積し、最新のトレンドにも敏感です。しかし、問題解決においてその知識は必ずしも有効ではありません。情報を知っていることと、現実の問題を解決する力とはまったく別の能力なのです。

早耳は本質を見失う

最先端の情報をいち早く手に入れることが評価される時代ですが、早耳であることが必ずしも優位とは限りません。真に必要なのは、情報の新しさではなく、その背後にある構造や原理を見極める思考力です。事実、表層の情報だけでは、物事の本質に辿り着けないのです。

知らないからこそ考える

知らないことに出会ったとき、人は初めて自らの論理で物事を捉えようとします。未知を恐れず、冷静に、正確に、丁寧に、論理的に考察し、真実を見つけ出す。この思考過程こそが、問題解決の本質です。逆に「知っているつもり」で思考を止めることが、誤った結論や行動を招く原因になります。

問題解決の根幹にあるのは『常識』

問題解決の出発点は、常識です。ここで言う常識とは、日常的な感覚ではなく、小学校の教科書に書かれているような、誰もが学ぶ基本的な原理原則のこと。これは18世紀までに築かれた普遍的な論理体系であり、近代科学や倫理の基礎でもあります。

問題の多くは、これらの原則に立ち返って考えることで解決の糸口が見えてきます。最先端の技術や情報は、その後に使う道具にすぎません。

話し合いや多数決は解決の手段ではない

あるべき方向性は、多数決や感情的な話し合いで決まるものではありません。今、目の前で起こっている現実を、正しく観察し、冷徹な論理で分析し、再現可能な原理に基づいて対応策を考える。それが本当の「問題解決」です。

結論:思考し、構造を見抜く力を育てよう

私たちが今求められているのは、「よく知っている人」ではなく、「正しく考え、行動できる人」です。知識の量ではなく、論理の質。それを支えるのは、地に足のついた常識と、丁寧な思考。時代が変わっても、この基本は変わりません。

ラルフ・ネルソンとテッド・ネルソン

父は映画監督、息子はハイパーテキストの父 ─ ラルフ・ネルソンとテッド・ネルソン

「ハイパーテキスト」という言葉をご存じでしょうか?
今や誰もが使うインターネット、ホームページの構造を形作ったこの概念を生んだのが、
テッド・ネルソン(Theodor Holm Nelson)です。

そしてその父は、アカデミー賞を受賞した名作映画『野のユリ』などを手がけた映画監督、
ラルフ・ネルソン(Ralph Nelson)。映画と情報、異なる世界を生きながら、
親子はどちらも「人に何かを伝える技術」の最前線にいました。

🎬 ラルフ・ネルソン ─ 映画で語った「人間の尊厳」

ラルフ・ネルソンは、1950〜60年代のアメリカにおいてテレビドラマの演出家としてキャリアを築き、その社会派の視点と人間描写の確かさで注目されました。
映画監督として本格的に活躍を始めた彼の代表作が、1963年の『野のユリ(Lilies of the Field)』です。

本作は、旅の途中で出会った黒人青年とドイツ系修道女たちとの交流を描いた、静かで温かなヒューマンドラマ。宗教も文化も異なる者同士が、労働と信頼を通じて心を通わせていく物語は、
公民権運動の高まりと人種対立が激化していた当時のアメリカにおいて、きわめて示唆的なものでした。

この作品で黒人青年ホーマー・スミスを演じたシドニー・ポワチエは、その繊細かつユーモアを交えた演技で
黒人俳優として初のアカデミー主演男優賞を受賞。
これはハリウッドのみならず、アメリカ社会全体における人種平等への一歩を象徴する歴史的出来事となりました。

ネルソンの作品には一貫して社会的少数者や弱者への共感が流れており、
まごころを君に(Charly)』では知的障害者の尊厳と自己決定を描きました。
この作品は、ダニエル・キースによる名作小説『アルジャーノンに花束を』を原作としており、
徐々に知能が高まっていく青年の葛藤と孤独、そして人間の本質に迫る深いテーマを扱っています。
主演のクリフ・ロバートソンは、この難しい役どころを見事に演じ切り、アカデミー主演男優賞を受賞しました。

また『ソルジャー・ブルー』では、19世紀アメリカのサンドクリーク虐殺事件を題材に、
国家による暴力と先住民への差別という歴史の暗部を暴き出しました。
派手な演出や娯楽性よりも、「人間をまっすぐに描くこと」に焦点を当てたその作風は、
ベトナム戦争下のアメリカにおいて、極めて社会的な意味を持つものとなり、
当時のハリウッドの中でも異色の存在として注目されました。

単なるエンターテインメントではなく、映画を通して問いかけられるのは「誰が“人間らしい”のか」という根源的なテーマ。
ネルソンはカメラを通して、“声なき人々の声”を可視化しようとした監督だったのかもしれません。

🧠 テッド・ネルソン ─ デジタル世界で「人間中心主義」を提唱

一方その息子、テッド・ネルソンは、1960年代からコンピュータを用いた「情報の構造化」という前人未踏の領域に挑み続けてきました。
彼の構想した「ハイパーテキスト」とは、単に文書同士を相互参照する技術ではなく、情報をネットワーク的に結び、人間の思考や創造性に即した形で記録・共有しようという思想的な発明でした。

テッド・ネルソンは、当時主流だった中央集権的で技術者中心のコンピュータ利用とは一線を画し、すべての人に開かれた情報空間の実現を目指しました。
その根底には、情報とは操作対象ではなく、人間の感情や記憶を受けとめる器であるべきだという一貫した「人間中心主義」の哲学が流れています。

「コンピュータを使う人は技術者ではなく、普通の人々──“the rest of us”だ」
─ テッド・ネルソン

今日私たちが日常的に使っているWebページのリンク構造や、マルチメディアの統合的な表現手法は、まさに彼の先駆的な発想の延長線上にあります。
しかしネルソン自身は、現在のインターネットが商業化や情報の断片化に偏っていることに対して批判的で、「本来目指していたのは、もっと優しく、もっと文脈を大切にした情報世界だった」と語っています。

🌱 映画と情報、異なるフィールドで人間を描いた親子

父・ラルフは映画で、息子・テッドはデジタル空間で、「情報を人に伝えるとは何か」を追求してきました。
表現の手段は違えど、その根底には“人間らしさ”があります。

ラルフ・ネルソンの映画にある温かさと、テッド・ネルソンの情報哲学にあるしなやかさ。
この親子の系譜は、現代のデジタル時代において、改めて見直すべき「伝える力」の原点かもしれません。

文:岡村新一

将棋AI

将棋AIはすべての差し手を把握しているのか?

投稿日:2024年10月4日|カテゴリ:AI・テクノロジー

将棋は規則で動くゲーム、でもAIは…?

将棋はルールが明確に決まっている「完全情報ゲーム」です。そのため「AIなら全部の手を分析して最善手がわかるのでは?」と思われがちですが、実はそうではありません。将棋の局面数はあまりに多く、いまだに全ての差し手をAIが網羅・記憶しているわけではないのです。

将棋の可能性は「天文学的」

  • 合法な局面の数:およそ 10の40乗以上
  • 指し手全体の可能性(展開の数):10の220乗以上

これは、全宇宙にある原子の数(10の80乗)よりもはるかに多い組み合わせです。

AIはどうやって強くなったのか?

AIはすべての手を記憶しているのではなく、評価関数探索アルゴリズムを使って「良さそうな手」を高速に選びます。

たとえば、GoogleのAlphaZeroは「モンテカルロ木探索」と「自己対戦による強化学習」を組み合わせて、数百万回の対局を通じて自力で強くなりました。

将棋AIと人間の違い

人間 将棋AI
経験・直感・読み 評価関数+計算力
数万局を記憶 1秒で数千万局面を探索

将棋は「完全解析」されていない

将棋における「完全解析」とは、すべての局面で最終的に勝つか負けるかを確定させることです。これは五目並べやチェッカーでは達成されていますが、将棋では今なお不可能です。

理由は、局面の数があまりに膨大で、現在の計算資源では解析に数百万年かかるとまで言われているからです。

まとめ:AIは「全部覚えている」わけではない

将棋AIは、規則で動くゲームにおいて人間を圧倒する強さを見せていますが、すべての局面を記憶しているわけではありません。評価と学習、そして推論によってリアルタイムに強い手を導き出しているのです。

Motownは、和歌

あなたは、はじめてで、さいごで、すべて

投稿日:2025年7月4日 カテゴリ:こころの音楽

Motownは、和歌のようだ。

Barry Whiteの「You’re The First, The Last, My Everything」。
何百回聴いても、心の奥に触れる。
あの重低音、まっすぐな言葉、揺るがぬ愛——
それは、どこか和歌に通じている。

古代の歌人も、ただ「素直な気持ち」を短いことばに乗せた。
奈良の春日の山に、アメリカのデトロイトのソウルが重なる。
不思議ではない。
人の心は、時代も、国も、肌の色も超えて響き合うのだ。

大和心とソウルの交差点

和歌は「まこと」の表現。飾らない、正直な、感謝や愛や寂しさ。
Motownの歌もまた、そんな「本音」でできている。
Barry Whiteの低く深い声は、まるで枕詞のように心を準備させる。
そして、まっすぐに伝える。「あなたは、私のすべてだ」と。

それを「照れずに言える」という文化。
それは、アフリカ系アメリカ人の精神の強さでもあり、
本来の大和心——恥ずかしさより誠実を大事にする心——でもあると、ぼくは思う。

世界は「まこと」と「うた」でつながる

「You’re The First, The Last, My Everything」
最初に出会ったときから、最後まで大事にしたい、
そんな存在が「すべて」なのだと伝える歌。
それは、和歌で言えば「わが心、君に染まりて、いまもなほ」——そんな感じかもしれない。

けいいちの思う「音楽の力」は、まさにこれ。
文化も歴史も超えて、「真心」でつながれるということ。
だからぼくは、Motownを聴くたび、どこか懐かしい気持ちになる。


🎵 Barry Whiteを聴く

「学校に行くことがすべて」なのか?

「学校に行くことがすべて」なのか?──教育の本質を問い直すと見えてくる進路の選択肢

投稿日:2025年6月25日
カテゴリ:教育と社会

教育=学校へ行くこと、という呪縛

子どもが生まれたら、学校へ行かせるのは当然。小学校、中学校、高校、大学……。そして就職。
私たちはいつからか、「教育」とは「学校に行くこと」だと信じて疑わなくなった。まるでそれが唯一の正解であるかのように。

だが、本当にそれだけでよいのか?
学校教育は確かに知識を与えてくれるが、それは「生き方」まで教えてくれるだろうか。学歴はあるが、なぜ働くのかわからない。そんな若者たちの孤独が、今深刻な問題となっている。

若者の孤独と、「会社に入るしかない」という空気

2025年6月の産経新聞の報道によると、20代の若者の半数が「孤独」を感じており、その影響は健康リスクに換算して「1日15本の喫煙」にも相当するとされる。
20代社員の孤独感に関するデータ

なぜ、社会に出たばかりの若者たちがこれほど孤独を感じるのか?
その理由のひとつに、「他に選択肢があることを知らされていない」という構造的な問題があるように思える。学校教育は「就職=会社員」のルートを標準化しすぎており、それ以外を選ぶ自由を、誰も本気で教えてこなかったのではないか。

農業という「もう一つの選択肢」──学歴不要、誰にでもできる

農林水産省の資料 ▶︎『農業を職業にしてみよう』 によれば、農業は学歴を問わず始めることができる職業だ。しかも、自然の中で、自分の力で生きるという本質的な働き方がある。

政府も「農業」という選択肢を提示してはいるが、なぜかその伝え方は非常に控えめだ。これは、150年にわたる「教育=サラリーマン育成」という国家構造のなごりかもしれない。

教育費の無償化が叫ばれる今こそ、「何のために学ぶのか」「学問とは何か」をもう一度問い直し、「学校に行くこと=人生の正解」ではないという認識を社会全体で持つ必要があるのではないか。

国家、学校、親──問いを投げかける責任は私たちにある

若者たちが社会に出て悩み、孤独を感じる背景には、「考える暇もなくサラリーマンになる」という構造がある。そしてその構造を作ったのは、国家であり、地方自治体であり、学校であり、親であり、社会そのものだ。

若者の孤独は、個人の弱さではなく、大人たちが問いを与えなかったことの結果だ。もっと多様な生き方、多様な働き方を、静かに、しかし確かに伝えていかなければならない。

文・けろいち

哲学の結晶として —— パソコン

哲学の結晶として —— パソコンという家電を作った、ただ一人のAppleこそ。

投稿日:2024年6月19日 | カテゴリ:テクノロジーと思想

パソコンが「哲学」になるとは思わなかった。だが、Appleという企業は、かつて「パソコン」を「人間の思想を解放する道具」として、最初から設計していた。

多くの日本のメーカーは、パソコンを冷蔵庫や炊飯器と同じような「便利な家電製品」として見ていた。スペックの向上、効率の追求、省エネ性能……確かにそれは必要だ。だが、それは人間の思考や創造性とは無関係な領域だった。

対してAppleは、パソコンを「思想の道具」として提示した。使うことで自分の中にある創造性や価値観が立ち上がり、言葉になり、形になる。そんな目的でMacintoshは生まれた。

それを明確に示したのが、1984年にスティーブ・ジョブズが発表したMacintoshであり、そしてその前後に展開された映像の数々だ。
単なるマシンではなく、世界の見方を変える家電を、ジョブズは提案した。

1984年、ジョブズがMacintoshを紹介した瞬間

まだ誰も「GUI」すら見たことがなかった時代に、彼はそれを当たり前のように操作してみせた。デザイン、サウンド、対話性。すべてに「人間らしさ」を込めた一台だった。

Appleが「1984」に投下した革命のCM

ジョージ・オーウェルの『1984』を引用しながら、AppleはIBMによるコンピュータ独占に挑んだ。CMの中で、女性アスリートが支配の象徴を破壊する——これはテクノロジー史上、最も詩的な広告だった。

「思想」としてのMacintosh —— スピーチより

Macintoshは「感動するパソコン」だった。ジョブズは、それを「思想の拡張装置」として語った。自分の考え、世界の捉え方、表現のすべてを、この小さな箱に託したのだ。

Think different —— 人類に贈るメッセージ

「クレイジーだと思われる人たちが世界を変える」。Appleのこのメッセージは、単なるマーケティングではない。
それは、思想としての道具=Macを信じた者だけが語れる言葉だった。

けろいちが思う「使うべきパソコン」とは

パソコンを選ぶとき、多くの人は価格やスペックに目を向ける。でも、それは本質だろうか? けろいちは、こう思う。

パソコンは「処理速度」や「メモリ容量」のためにあるのではない。想像し、創造するための機械なのだ。何かを思いつき、それをかたちにする。その営みに寄り添う道具こそ、本当の意味で「使うべきパソコン」ではないか。

その思想を、最初から持っていたのがAppleだった。Macintoshは「哲学の結晶」として誕生し、人の内なる世界を外に開くための設計思想が貫かれていた。

今なお、その精神はAppleに息づいている。だから、けろいちはためらいなく言う。「使うべきパソコンは、Appleだ」と。

モータウンの愛の叫び

Sugar Pie, Honey Bunch

投稿日:2025年6月17日|カテゴリ:文化の交差点

モータウンの愛の叫び


“I Can’t Help Myself (Sugar Pie, Honey Bunch)”
は、1965年にリリースされたフォー・トップスの名曲。
“I love you and nobody else” — こんなにも直球で、感情に火をつける言葉があるだろうか。
モータウン・サウンドは、抑えきれない衝動をそのままに、ビートに乗せて世界へ放つ。

和歌の内なるさざ波

一方、和歌はどうだろう。「しのぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」(平兼盛)
感情をひた隠しにしても、知らず知らず表に現れる恋心。
ビートはない。リズムは自然と五七五七七の中に沈み、響くのは心の奥のさざ波だ。

アフリカ系アメリカ人と日本人の表現文化

モータウンを育んだアフリカ系アメリカ人の文化は、奴隷制や差別の歴史の中で、
「今、ここに生きている自分」の声を響かせることに意味があった。
声は大きく、身体は揺れ、感情はすべて表現するものとして信じられていた。

対して日本文化は、沈黙の中に意味を見出す。「言わぬが花」「以心伝心」など、
言葉を削ることで、かえって深まるニュアンスに重きを置いてきた。
感情はあらわにせず、にじませることで、相手にゆだねるのが日本的な美とされる。

圧倒的な違いと、圧倒的な類似性

  • 違い:モータウンは「叫ぶ」。和歌は「にじませる」。
  • 共通点:どちらも、恋という不確かでどうしようもないものを、「ことば」に託す。

時代も言語も文化も異なるけれど、
「好きでたまらない」という感情だけは、千年経っても変わらないらしい。

そして、あなたの恋は

叫びたい? にじませたい?
いずれにしても、ことばにしてみることから始まるのかもしれません。